文化の栄養、アウトプットの味わい

マーケティングの観点から言えば正解や成功、だけど個人的直観から捉えるといただけない事象がある。

それは「クリエイターや文化人」としてメジャーな人が、「本当は“クリエイトすることや文化”が好きなわけではない」と感じてしまうケースだ。

そういう場合、作品を鑑賞したときや発言を聞いた時「味がしない」のである。

あるいは合成調味料のみの、出汁や素材の旨味のない、見た目だけ食べ物の姿をした発泡スチロールを齧ってしまったような吐き気がする。



現代アートに巨額を投じ、SNSで現金をバラ撒く企業TOPは(品格については別にどちらでも構わない、それによって企業が成長したのかもしれないから)、本当にアートが好きか?有名作だから高価だから話題になるから、ではないのか?


その人は表立っては古典名画について一言も出していない一方、高級なワインとカップ麺を常食していることを公言している。例えば現代アートが特に好きだとしても、アートが好きなら様々な広がりがあるので古典からプリミティブまでアート全般に興味が湧くものだ。なのにそれが垣間見えてこない。良いワインの精妙な味わいを大切にするようになるとジャンクフードが耐え難くなるケースが多いし、カジュアルライフを楽しむならチープなワインの楽しみ方がわかってくるものだがそれがない。

なんというか、その人からは「文化を味わっている」感じが全くしないのだ。街の喫茶店でも友人の本棚でも、文化が好きな人やその人が集めたものからは、深く魅力的な世界を「味わっている」ことがわかるものだ。


本当に文化が好きなわけでなくても構わない。それは個人の自由であるから。ただ、ブランディングとして使うなら、思慮が足りなすぎるのではないか。もしあの巨額で「文化的に有名になりたいなら」、形ばかりの財団や賞ではなく、広く芸術家を支援する仕組みに取り組んだり、一人の大病の子に寄付するだけでなく、全国の児童養護施設に良い本を寄贈するなどの貢献もできたはずだ。それはたとえポーズや偽善と言われたとしても、本当の文化的価値づくりにつながることなのだ。わかりやすい高価で有名なもので武装したって、栄養が吸収できていないなら文化的筋力は貧弱で、弱い兵士のままなのだ。



インフルエンサー、ネットビジネス、この時代に有効な存在やスキームであるし、個々が鎬を削って良くできあがったメソッドであると思う。

昨今のインフルエンサーやタレント作家と、コミュニティビジネスや情報商材ビジネスの良くない話を何度も聞いた。併せて様々な角度からの批評、共感できる論説も見た。


そこに私が感じたのは、「クリエイター」「クリエイティブな仕事」というのは

“酸っぱいブドウの逆”なのだということ。(甘そうなカリンとでもいうか)

(手が届かないものの価値を否定する防衛心理 VS 価値あるように感じて手にしたから不味くても否定できない防衛心理という感じ)

絵でも文でも立体でも音楽でも空間でも、クリエイトすることを選んだ人間はまず苦しむ。オリジナリティの迷路、多量な業務の消耗、世の中との軋轢やたくさんの痛み。一見 酸っぱいことだらけだ。


それでもやめられない本能的なモチベーション、積み重ねていく努力、そして時間と共に人生経験が作用していく。それらは全てクリエイティブの「栄養」になり、実を甘く旨く瑞々しくしていくものだ。


ただ、「クリエイターになりたいから本を書く、有名になりたいから 認められたいから何かクリエイティブなコトする」人たちがいて、それ自体は多様性につながるから良いのだけれど、たまにお金搾取のスキームに利用できる場合、とんでもない「偽物ヒット」が出てしまうことがある。

いわゆるワナビーや、不満や不安だらけの人が、クリエイティブの煙に巻かれて「お布施をすれば 参加をすれば、自分もクリエイターになれる、クリエイティブなビジネスでイケる」とお金と時間を差し出してしまう。そこにスター的存在の“作品”が教科書のようにセットになっている。それ自体も別に良い、人にノウハウを教わったり、新たな可能性に勉強費を払うのは経験だ。

引っ掛かるのは、そのスター様の作品が「味がしない」ことである。クリエイターである自分に酔っていて、内容はあまりに浅はかで表現もチープなコピーで、なのに大声で感動しろと喚かれているような。この作者は本当に本を読んだことがあるのか、名画を見たことがあるのか、本気で作っているのか、嫌な後味として疑問が残る感じ。“パン”だと差し出されたものが、“人口調味料と着色料にまみれた発泡スチロール”だった気分。


同様に、ビジネスや成功法を教えるスター様があまりに浅薄で数字だけ凄くて、それは“クリエイティブなビジネス”でも“幸せな成功”でもないように見えるのだ。

「普通の女子が自己表現を武器に(キラキラ)」「ただの男がビジネスの勝者に(ギラギラ)」、それはドリームなのだろう。ドリームもそのための努力も、それは経験だからいい。だけど、自分が酔っている世界が空虚で、お金だけがとられていくなら、一度立ち止まって抜け出してみてほしい。


そして、一冊の文庫本、川辺の夕焼けなど、手の届く現実から、何かを味わってみてほしい。味わうことがクリエイティブの栄養になる。その栄養を凝縮して、自分や実(作品)を作るのだ。

それを“おいしい”というのは、自分や数人の友人だけかもしれない。だけど、たくさんの“数字相手に味のしない物体”を虚飾で出すより充実するかもしれない。

色々な考え、やりがい、居場所がある。でもそれに「味がしない」なら食べ続けるより、足元に根を張り栄養を吸収し、味のある人生と作品を作った方が良いと思うのだ。


(本論はあくまで事象についての個人的見解であり、誰かを否定する意図はありません)



補足)

時事を斬る!というようなことは、なるべくしないようにしている。

SNSでも発言でも、書き物でも。

それは私が広告の仕事に従事していることもあり、あらゆる企業も政治も関わってくるからという自制と、「あらゆるものには功罪両面がある」と考えているからである。


そして、誰かが正義感に駆られて声を上げているのを目にする度、反対派のアイデンティティに縋っていたり、自己陶酔のためにやっていることが透けてしまっているケースが多い様に思える。完全な善などないのに。


酔いを醒まして語る時、その人の視点が見えてくるのが良いと思うのだ。だからこの話は約1か月寝かせて、今書いている。

世間的に成功することには価値がある、それはたくさんの人に文化や喜びを伝えられる現実の力だからだ。人間の承認欲求も存在の筋肉だから構わない。

ただ、それらが歪んで大きくなり過ぎたとき、異様な沼や合成調味料と発泡スチロールで出来たような何かになるのだと思う。それを「売れているから、おいしいから、イイものだから」と押し付けられると、反射的に吐きそうになるのだ。


地味でも、文化という大地に根を張り、一滴一滴 水のように人生経験を吸うことで、やっと芽を出し、葉を広げ、花を咲かせ、実らせられる。

クリエイティブや文化は、そういう栄養を吸って、味わいが出るものだと思う。


Image by Pixabay(license free)

不思議と夢の話~夜の魚~

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