怒っていいよ。

時折、心理的な相談を受けるのだが、情報を出した後に、大体私は「いいよ」と言っているらしい。
怒っていいよ。
泣いていいよ。
逃げていいよ。
それをやっていいよ。
それはやらなくてもいいよ。
気にしなくていいよ。
休んでいいよ。
自慢していいよ。
楽しんでいいよ。
これは口癖のようなもので、私の基本スタンスとして“何があっても良い”という哲学があるからだと思う。

言葉は不思議なもので、良い内容でも実感が入っていないと心に響かないし、当たり前のような普通の言葉に実感や思いが入っていると、腑に落ちたり心に沁みたりするものだ。だから、私が素直に本当に「〜いいよ」と言った後に、涙や怒りを解放したり、即行動して人生を変えていく人達がいる。それでいいと思う。
私は嘘臭いポジティブ主義やムラ社会的なイデオロギー(個々人の思いではなく、それが正義の戦いだと思考停止して運動化したものや何かを敵対視したもの)が苦手だ。一見良いことを言っているようで、誰かをその概念で縛ろうとする傾向が見えるから。

心理学および心理療法の領域で「許可」という概念がある。許可できるかどうかは、その人なりの心理的課題と言っても良いかもしれない。
しんどくなるほど頑張ってしまう人や、辛い悩みを抱えている人は“やらなければいけない、我慢しなきゃ、〇〇しちゃだめだ”と、自分に「禁止」をかけていることが本当に多い。その禁止は家族や社会に吹き込まれた、“都合のいい奴隷洗脳”のようなものなのかもしれないのに、正義と思って必死に従いがちになる。
本当に自分が生きたいように生きて、人生という総合芸術を豊かにすることが自己責任というものだと思うので、まず自分の縛る「不要な禁止」を外してやってみて、ゼロ地点からアレコレ選択すれば良いと思う。

私自身も強烈な多数の“禁止の檻の中”で生きて来たので、今の私を知っている人には過去の私は別人に見えると思う。休んでもいい、頑張らなくてもいい、好きなことをやっていい。自分を解放して行く回数が人一倍多かったから、「いいよ」が呼吸くらい自然な口癖になっているのかもしれない。本能の叫びが、自分を解放する勉強と行動に駆り立てたのだが、それでやっと楽になったのは30代に入ってからだ。心理学の研究対象として様々なケースを見せてくれた「自分」に少し感謝する。相談を受けるたび、自分の地獄の深さと超越の振り幅、様々な色合い(醜さや弱さや害も含めて)を認めて来たことが、相談者のネガティヴと可能性を理解することに繋がっているように感じるからだ。相談者が自分の負の感情を恥じる度に「大丈夫、もっと私は醜い」と肯定できるというか。
そんな私に話をしてくれた人達が、少しでも楽になるといいなと思っている。

(補足)
“〇〇しなければならない”と言うガチガチのパターンで常に緊張して頑張って、優越感と劣等感で不自然、ありのままの自分に自信が持てない人は、家庭環境による否定から生み出される“神経症”的な状態かもしれない。病気と言っているのではなく“損な癖”だと思ってほしい。
優等生に多いのだが、そういう人は「加藤諦三」の本を読むと、一冊で人生が変わるほど楽になると思う。
まさに私は学生時代に、自分の生き辛さをなんとかしようとして本屋でこの1冊『「愛する能力」と「楽しむ能力」』(加藤諦三著)をきっかけに、心理学で自己救済するに至った。
“自分のことが書かれている”と言うような本がこの世には結構あり、それを読むことで“自分を知る=理解・受容・許可”と解放につながることも多い。
自分を許すことが出来たら、大抵のことは大丈夫だ。

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不思議と夢の話~夜の魚~

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