子供の頃からプラネタリウムが好きだった。市営の施設は綺麗で空いていて、50円位の入場料で1時間は別世界へ行けるのだ。主に星座と神話のストーリーを組み合わせた上映が多かった気がする。宇宙、神話、古代文明、その壮大で独特な世界観を大切にしていた。様々な本やテレビで宇宙についてみることが好きで、そしてその度に壮大さを感じ、どこか寂しい気分になったものだ。
特に、“火星と木星の間”を思う時、哀しみが満ちていく。「無くなってしまった」という、一番冷たく悲しい概念が浮かぶのが不思議だった。
テレビの映像などでも、木星単体の画像は大丈夫だが、木星から中心(太陽系は、太陽・水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星の順)に向かったスペース、つまり火星までの間が描かれると哀しみが湧いてくる。
大人になり、自分の部屋を構え、何をやっても良い自由な時間を得て、私が行ったのはプラネタリウムだ。近代的な演出や時代性を反映した重力の話などが含まれ、そこまでのトリップ感は得られなかったが、ひとつ鳥肌モノのシーンがあった。それは、ギリシアの神殿から宇宙へ上り、太陽系を巡っていくシーン。またあの哀しみが湧いてきた。
都内に隕石を売っているマニアなお店があって、そこで大きな隕石について店主に
「この隕石はどこから来てどこに落ちたものか」尋ねると、
「火星と木星の間から来て、アフリカに落ちた」という。その時も何か響くものがあった。
『ガサラキ』という、90年代後半のアニメーションがある。縦糸となっているのは“能(シャーマン)”と“古来伝承兵器(ロボット)”であり、政治闘争とクローンや前世含む自分探しの逃避行が横糸として織り込まれていく。硬派な作品であり、いわゆるPOPなアニメーションやロボットものとしては跳ねなかったが、抑制の効いた表現と、和の神秘性の描写で私を含むコアなファンがいる。久しぶりに思い出し、海外版DVDを購入し全話観た。やはりプラネタリウムに通ずる独特の感覚がある。WEBでリサーチしていると、そもそもガサラキとは何なのか、能のシャーマニズムで何と繋がったのかという考察がでており、当時のアニメ雑誌であの“住処を失った宇宙存在の出身星”(作中では、アクセスする度、月の裏側のカットが出る)は「火星と木星の間の星」という設定があったという。風説かもしれないが、なぜこれほどこの作品に惹かれるのか、自分で納得したことを覚えている。
火星と木星の間には、岩石が輪のように広がり、『ガンダム』では“アステロイドベルト”でおなじみだ。それについて空想なのか都市伝説なのか、ここにはもうひとつ、惑星があって、それが砕けてしまった、という説がある。
「ティアマト」という名で呼ばれるその存在(惑星)は、大地と海のもととなったシュメールの神話とリンクしている。ティアマトの欠片が月だという説を見たこともある。
私にとって、この話がとてもしっくりくるのだ。想像かもしれない、ただの浪漫なのかもしれない。
ただ、火星と木星の間に、かつて惑星があり、そこは失われ、哀しみが記憶されている。そんな遠い思いを、時々宇宙に馳せる。
Image by :NASA Image and Video Library
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