個性信仰より、努力と実力

もう「個性」とか「自分らしさ」とか「自己実現」とか、どうでも良いのではないかと思っている。


大前提として、人間の個性はそれぞれで良いと思う。

音楽が好きなことや人見知りなこと、事務作業は苦手だが対面販売は向いているなど、それぞれの要素の良さも生き辛さも抱えるのは本人で、暴力などの他者を著しく害する傾向以外は、個性は個性。人それぞれ。自分の個性を大事にしてもいいし、苦しんで試行錯誤した挙句、武器にしてもいい。


自分らしさもそれ自体は自然なものだ。

自分の感性や求めるものを自分で理解し肯定することは大事である。それは生き物の性質なので、TPOや相手を考え、よほど社会的に害を及ぼさなければ、どう在っても構わない。赤い服を着ても、コーヒーをたくさん飲んでも、スノビッシュでも潔くても繊細でも、何でもいい。


自己実現だって、小さくても壮大でもどんな形でも良いものだ。

小説を書いてもいい、皆が笑顔になれるお菓子を作ってもいい、シェアハウス経営でも野球を毎週やることでもいい。やらずにはいられないこと、やるべきこと、それを自分を通して実現することは、独特の納得感と手応えがあるものだ。若くして成す人もいれば、老年期から開花する場合もある。自分と向き合い、ただひたすらに成していけばいい。


ではなぜ、今「個性が~」とか「自分らしく~」という言葉に辟易しているのか。

それは「努力の回避、運命への責任転嫁、現実逃避、浅薄な陶酔」などに多分に塗れた商売と信仰が溢れているからだと思う。「キラキラ起業系セミナー・サロン」も「スピ系自己実現本・思考」も、それらに接することで、その人が考えるキッカケや前向きな気持ちに結びつくなら別に良いと思う。

問題は「自分らしく個性を発揮して自己実現するのが正義」だと決めつけがちな所だ。そして“自分自分”と言いながら思考停止して商売人(セミナー主等)の養分になっていたり、「普通のこと、現実的なこと」をブロックだの常識だのと見下したり否定する傾向だ。


例えば私は、子供の頃から絵を描いたり考えることが好きな一方、いわゆる普通の子からは外れがちで課題を抱えていたが、独学も専門教育も泥沼の試行錯誤も経て、自分の絵を描くようになった。また、戦いや経験と思考と勉強を積み重ね、企画やディレクションに活用したり、言葉やコンテンツに出したりしている。様々な文化を好きなだけでなく、分析したり研究してきたことで、それらを多角的に味わったり、応用して発案できることもある。他にもいろいろある。

それを知って「あなたは才能があっていいな~自分にもそういう才能(運命)があったら何かできるのに…」「あなたは個性があるから~自分の個性も生かせたらいいのに…」「あなたらしくそれを仕事にして自己実現しなよ~自分も何かクリエイティブな力が目覚めたら自己実現…」とか言われると、悪い気はしないのだが違和感や うんざり感はある。


才能?

私は色彩への興味や描くことへの嗜好は持っていたが、それは「素質」で、本気でやればやるほど創造の海の中で徒手空拳で戦うようなもので、イメージを地道に構築し、必死に様々なものを吸収したり、技術や方法を自分なりに組み合わせて何度も調整したり、圧倒的な「人知を超えた才能のある人」に畏怖を覚えたり、そんな現実の中で形にしてきたのだ。ひたすら考えて努力してきたのだ。

「閃き(天啓)、流れるように(自動書記)作れた」というコメント(インタビューなどでカッコつけて言うことが多いセリフ)は、半分本当で半分嘘だ。

確かにそういう時もあるし、そういうタイプの人もいるが、大抵のクリエイティブな人は研究や技術や自分なりの方法論を積み重ね、着想を実際の形に、ドラフトをブラッシュアップし一定ラインまで引き上げるなど、現実化の努力をしているものだ。

ある現代音楽家が同じことを呟いていて、同意しているのはみな「プロのクリエイター」だった。

『ブルーピリオド』という作品でも、絵を見て「才能ですね」と何も考えずに言った人間に対し、描いた者が「絵のこと考えている時間が他の人より多いだけ、手放しに才能って言われても何もやってないって言われているみたい」というセリフがある。激しく同意する。

「本気で何かをやったこと」がない人ほど、フワフワとしたイメージで軽々しく「才能」という言葉を使うように感じる。何かを一心にやってきた人(プロの仕事でも生き甲斐でも)は、現実でやっていく「努力」を知っているから、自然に他者の「やっていること」を理解し認めることができるのだろう。


個性?自分らしさ?

私は表向きはクリエイティブ系の仕事をしてきたから、多少 一般的基準から見れば人間として変わっていてもやっていけるが、子供の頃から苦労しまくった性質を持っていた。考えすぎだよと言われる度、お前はもっと考えろよ、と思っていた。理解者のいない半生。感覚の過敏さに苦しむ時間。様々な本を読み、現実の中でひたすら試行錯誤してきたこと、吸収したもの磨いたもの、武器とするもの遊ぶもの、性質を自分で使えるようになっただけで、最初から魅力的な個性なんか持っていたわけじゃない。「自分らしさ」なんて作るものじゃない、なんとか「制御」するものだった。

たまにいるタイプだが、クリエイティブを気取っても本気で感じて考えていない人は嘘臭さがバレているし、独特なキャラ付けに憧れる人は承認欲求から“個性”にこだわっている為、重く不自然だ。真似も勉強になるけれど、誰かのセリフや行動などを表面的に真似ても本質の勝負では勝てないと思う。内的世界の器と現実の経験、生き方や在り方で人間は凄まじく違ってくるものだ。個性とか自分らしさとか、そんな生易しいものではやっていけない。


自己実現?

私は絵を素直に描くこと、考えたことを表現する状態はそうだと言える。だけど、「自己実現」とか唱える人に、何かの「プロ」はいないようだ(クリエイターでも芸能人でも企業家でも、かっこつけの自伝や講演や、ブランディングの為のブログや記事ではうそぶいているが、大抵泥臭い努力と現実的な考察の積み重ねがある)。

「自己実現」を叫ぶ人は、目の前のものがスゴく見えて、現実社会や、その業界の深さや高みや戦いが見えていないのだろう。個性や表現を仕事(お金)にするには向き不向きがあり、良いものだけど売れない、凄いけど客層が限られるなど、単発でうまくいくことはあっても継続的仕事になりにくいものがあるのだ。

何より本人が自分の心のためにしていることや、他者なんてどうでもいいこともある。「仕事にすること」や「他者の評価を得ること」を自己実現と捉える安易な発想はないのだ。

また、間違っても「個性で仕事、あなたの個性を生かした仕事」なんて幻想を唱えるのはやめよう(学校や商売には溢れているが、搾取のための幻想だ)。

他人にとって「お金を払う価値としての個性や才能」なんて、本当の一握りの話で、そういうものを持っている人は「個性を生かしたい」なんて生ぬるいこと求めていないものだ。ひたすら、そう生きるしかないというか。

個性や才能があるように見える分野でも、大抵はやる気のある人間が、考え続け、膨大で地道な「努力」、多少の演出や何かを組み合わせて何とかやっているものだ。

だから現実的な知識やスキルで仕事をしている人、相当なレベルの案件を自力でこなしたことがある人や地獄を見ている人ほど、「実力」を軽視しない。一見地味でも実際に出来ること、自己表現じゃなくて実際に「他者にとって価値のあることが提供できる」こと、その為に積み重ねてきたこと。それは「直感」や「ワクワク」や「個性」や「才能」なんかじゃなく、日々の「現実の中で実際にやってきたことのチカラ」なのだ。


様々な考え方があっていい。おままごとのように空想してみてもいい。

だけど、個性も自分らしさも自己実現も、努力と現実を軽視して酔うものではないのだ。

実際にやること、現実を生きること、醒めて何を見るか。


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