シャドウのダンス

人間が持つ要素の中で、自分が認めたくないものや欠点だと思うものを強く否定し抑圧していると、「シャドウ」となって人生に現れる。集合無意識経由でいつも“同じタイプの嫌な人・嫌なパターン”に苦しめられたり、苛立ちや不満をたぎらせることになる。それは、自分の中の“嫌なもの”を否定しているから、相手に“投影”して見ているだけであったりするのに。否定されたものが、存在をアピールしようとして浮き上がってくる。

例えば、“俗世の評価(を求めること)”を“下品でくだらない”と否定していると、世間話で出てくる受賞歴やメディアでの人気などにイチイチ不快になる。“あんなに周りの評価を求めて媚びて醜い、大したことないのに自慢ばかり”と。本当は自分も世間の評価を人一倍欲していても、育つ環境の価値観や失敗の経験からそれを抑圧してしまったりすると、それはシャドウとなり、いつも周りに“自慢屋”が現れる。

だから同じタイプやパターンが不快ならば、その特徴・要素を「~っていいな、自分も~したい」(例:世間に評価されるのっていいな、私も世間に評価されたい、甘えるっていいな、私も甘えたい等)と言い換えてみると、すっきりすることも多い。実際がどうあれシャドウを認めてしまうと途端に楽になるのである。自分の欲求や素質は、認めるだけで解放され、他人が気にならなくなる。

また、自分のパターンのバランスをとるために“逆の特徴”が現れることもある。例えば“ノーと言えない、いつも誰かの為に我慢する”というパターンの場合、“自分勝手な人にいつも迷惑をかけられる”というバランスが現れる。“ノー”と言うまで、“自分のために行動する”と心の舵取りをするまで嫌というほどパターンを繰り返す。それは“ノーを言ったら存在否定されるかもしれない、他人の言いなりになっていれば自分の行動選択の責任を持たなくていい”等の“恐れや逃避”が根底にあり、被害者のスタンスで“意思決定や行動選択”を自分から否定している。そういう場合、「~はやめる、自分も~をやる」(例:我慢はやめる、自分も自分勝手になる等)と言葉にしてみると、急に視点が上がる。自分の中の極端なアンバランスをバランスさせるためにある要素が他者によって補完されていたと認識する。それだけで、楽になるだろう。他人は他人、自分は自分と認めて囚われなくなる。


『シャドウ・エフェクト』という本の中に“光のシャドウ”という概念があり、それが印象深かった。自分の中にあるが、認められていない要素を“魅了”という形で他者に投影していることがあるという。

私は“疾走・圧倒的な攻撃力を覚醒”させる映像や存在に強く魅了される。ロックやスピードバトル作品を、一体化するように鑑賞することが好きだ。おそらく私はそういう要素を眠らせていて、普段は使っていないのだろう。だが、カオスのような現場や、アグレッシブなブレインストーミングで“疾走・攻撃力を覚醒させて自分を発揮している”ということがあった。そういう自分の要素も認めてあげていいと思った。


シャドウを認めさえすればシャドウは自分に統合される。それも良いが、否定し切り離そうとしていたからこそ違いがあり、不協和が何とかダンスしようとしていたようで、それもまた面白いものだったのかもしれない。

Image by :NASA Image and Video Library


不思議と夢の話~夜の魚~

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