時代の気分、巫たる表現者。

先日、とある作家の動画を見ていて、30年以上プロとして表現活動をする彼の根底の部分を垣間見た。様々なヒット作や作者について解説するシリーズなのだが、BARの常連の話のように近く感じ、私は頷きながら聞いていた。


ヒットの法則、これは様々な分野で語られているが、彼の言葉から端的に表すと、

「(人々の)欲求×定番+新しさ・オリジナリティ→ヒット(新定番化)」。

孤高のアーティストは自分の作りたいものを作ればいい、定番など考えない。大半の企業はマーケティングで欲求と新しさをプロダクトアウトしようとする。欲求と定番は守れても、オリジナリティが魅力的でなく空回りすることもある。クリエイターに限らず、この“欲求”の部分に向き合い、掴んで表現まで走り切れるかは、戦いのようなものである。

私も画学生時代から、いくら自分が本気で作っても世間的評価が得られないことにあがいてきた。美術史やデザイン、映画等の様々な表現論やメソッドを勉強しまくり、自分なりに何度もまとめ、自己の力を超えた表現を結晶化させたいと思い、ノートにはこうまとめた。

「時代の気分(集合無意識)×普遍性(知・表現手法)×自分ならでは(テイスト・オリジナリティ)」

飛びぬけた表現上の個性やテーマがなく、私が良いと思う表現世界は皆に“良い、綺麗”と言われるがビッグインパクトには至らないタイプで、若さゆえの自己顕示欲や承認欲求も抱えていたため、もがいていた。いつもの自分の表現に頭で考えた普遍性やテクニックを組み合わせ、時代性を入れようと問題をあえて切り取っていた。(「君は問題意識を持っている」「君はこの教室で一人、違うことをしようとしている」と教授に言われた)


漠然と、頭が空回りしていることに気付く一方、時代の気分は自分の水面下に確かに流れている実感がしていた。この感覚を生かすことが、生かすことができることが、私が個人的欲求だけでなく表現欲求にかられることの根底にあるとわかっていた。

あの頃は、90年代後半の閉塞感と共にクールに疾走する風の感覚があった。『ニルヴァーナ』とか『池袋ウエストゲートパーク』、流行語、そのころの情景の独特の感覚。00年代の社会の乾いた崩壊イメージと疲弊感、その頃の音楽も本も映像作品や漫画も、そういう気分を表現したものに強く惹かれていた。『グロテスク』、『進撃の巨人』の残酷なブラック労働観や格差社会とか。


ヒットする歌、ベストセラーの本、流行ったコンテンツ、それらの作者は皆、

“巫(かんなぎ)”でありながら、表現者という“我”も融合させたのだと思う。

巫の字は、上下の横棒である天と地、それらの間で踊る人(人の字がふたつあるのは踊りまわっていることらしい)。

「人々の欲望:集合無意識」という地、「定番:普遍性」という天、そしてその間で踊る人「新しさ・オリジナリティ:自分ならでは」が一体となった創造物が、モノを超え、人々の心や時代と一体化するのだろう。それは感動という仕組みの一つだと思う。





Image by :NASA Image and Video Library

不思議と夢の話~夜の魚~

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